和歌山の特産品

和歌山の食べ物の歴史は古く、砂糖、かつお節、醤油、酢など味付けの基本となるものに、優れたものが多くあります。

参考(和歌山県のホームページ)  プレミア和歌山カタログ(和歌山県優良県産品推奨制度によるカタログ)

古くから伝わる調味料とその歴史

砂糖

~白砂糖の生産を、薩摩藩よりも20年以上早く始めていた~

 輸入品にかわって砂糖の生産がはじまったのは元禄初年(1688年)、薩摩藩の奄美大島であったが、寛政年間(1789~1801年)から各地で市場向けの生産が行なわれるようになったといわれている。
『紀伊風土記』によれば、和歌山では元文4年(1739年)に紀州城下の安田長兵衛がはじめて甘蔗苗を植えて翌年に砂糖を製造し、寛政2年(1790年)からその製法を諸州に伝え、「皇国にて砂糖を製する始という」と述べている。

とくに白砂糖の生産は、薩摩藩でも明治7年(1770年)からはじめられているのに、紀州藩ではそれよりも20数年早い寛保3年(1743年)7月には江戸幕府に献上し、好評をえており、その技術が進んでいたといえる。紀州の製糖技術はどこから入ってきたのか明らかではないが、海運や漁業が進み、各地にでかけていたので、当時の最先端の技術をとり入れることができたのだろう。

『紀伊風土記』によると、幕末期には紀州城下や海部・名草郡の農家で、黒砂糖、白砂糖を生産している。

かつお節

~土佐がつおは紀州の技術が基だった~

かつお節といえば土佐が本場であるが、じつは紀州の人が土佐に移住し、紀州のすぐれた技術をもとに従来の土佐のかつお節生産を完成させたのであって、紀州の役割は大きい。
紀州と土佐の関係は、海を通じ、漁業を介して密接な関係にあった。紀州は捕鯨をはじめ漁業技術にすぐれ、各地に発展したが、かつお節の製造も進んでいたのである。

湯浅醤油

~日本醤油の起源説も?~

 有田郡湯浅町でつくられてきた湯浅醤油の歴史は古く、日本醤油の起源をなすという説もある。
13世紀の前半(鎌倉時代)に法燈国師(由良の興国寺の開祖。覚心)が中国から味噌の製造法を習って帰国し、味噌をつくるときに(沈殿した液から醤油製造がはじまったという説である。ただし、確実な資料があるわけではなく、伝説的な要素が多い。

この地の水が醤油をつくるのに適しており、近世に入ると紀州藩の権威のもとに、その保護と統制をうけて発展をとげた。明治末年から大正にかけては、主として大阪、京都、神戸が湯浅醤油の販路であり、これに次いで和歌山県下であった。また、販路は海外へも広がり、満州(中国東北地方)、朝鮮、ハワイ、米国にまで及んだ。

径山寺味噌(きんざんじみそ)

~安貞2年(1228年)から現在に至る特産物~

「金山寺味噌」とも書き、湯浅醤油とともに有名で、昭和に入ってからもその特色を発揮している。これは安貞2年(1228年)、興国寺の法燈国師が中国から径山寺味噌の醸造法を習って帰国し、有田郡湯浅村で布教を開始したときからつくられだしたという。
この地の水や風土が適していたため、特産物として現代に至っている。

粉河酢

江戸時代、粉河寺の門前町の粉河で酢の生産が大々的に行なわれ、他国にまでその名が知られていた。
その起源については、10世紀末、花山法皇が西国霊場を開いたときに粉河の渓流が酢の生産に適していたことから、その製法が伝えられたという。しかし、これも多分に伝説的で真偽のほどは明確ではない。

粉河酢は、那賀郡でとれる上質米を原料とし、水質に恵まれ、品質は兵庫や津で生産された酢よりもすぐれていたといわれ、江戸時代には、紀州藩の仕入方商品として他地方にまでその名が知られ、江戸や和歌山に出店を持つほどに発展した。
幕末期に入ると、粉河以外で酢を生産し「粉河酢」と偽称するものが現われ、粉河酢の生産が衰えたが、明治時代にも北海道、関東、近畿、四国、九州、朝鮮、台湾にまで販路があった。その用途は、調理用以外にも染物、こんぶ製造、水産物、漬物製造等にも使用され、博覧会でも賞をえた。

しかし、酢酸を混入した混成酢の流行によって、粉河酢は明治31年度を最高として衰微し、大正末には那賀郡全体でも清酢の生産が行なわれなくなった。

古くから伝わる特産品とその歴史

高野豆腐

~高野山の厳しい寒さが生んだ知恵の一品~

高野豆腐は凍り豆腐ともいわれ、その名の示すように、高野山の厳しい寒さと豆腐を上手に利用した人間の知恵である。
高野豆腐の起源は明らかではないが、すでに中世以来天下に流布し、幕末期には高野山上に数十軒の生産者があり、年間数十万個を生産したという。寒い夜に一時に凍ったのを絶品とした。

源兵衛の製品が一番すぐれ、高野山上や山麓、葛城山の模造品までも「源兵衛豆腐」の名を使用して町で販売した。本来的には高野山上に高野豆腐の生産者の株仲間が三〇軒と定められ、高野山上や寺領内では株仲間以外の生産は禁止されていたが、しだいにその特権がこわされた。

葛城山の凍り豆腐は、文化4年(1807年)に伊都郡伏原村の者が葛城山五葉谷で生産をはじめ、明治に入って、紀伊、大和、河内の生産者が合同して「三国連合凍豆腐製造営業者組合」を組織し、その後、「葛城凍豆腐製造同業者組合」をつくるなど発展をとげた。

紀州みかん

~信長や家康にも献上された「紀州みかん」~

紀州みかんの歴史は確実な資料に残されており、最も古いのは享禄2年(1529年)で、紀州から京都に帰る貴族がみやげものとして持ち帰ったというものである。
大変貴重品であり、天正8年(1580年)に織田信長に5かご献上したり、その後も慶長16年(1611年)に徳川家康に200個贈っている。

栽培規模は、慶長6年(1601年)には伊都郡や有田郡で一村に数本から、多い村で30数本ぐらいであった。

江戸時代の初期には大阪、堺、伏見に小船で運搬し、寛永11年(1634年)に江戸に送ったところ、色、香り、形ともにすぐれており、伊豆、駿河などのみかんよりも評判を得て、江戸では水菓子屋が取り扱った。その後、最盛期には50万かごも江戸で売られるほどで、紀州みかんの名声を天下に広めた。すでに寛永15年(1638年)付の自序をもつ俳書『毛吹草(けふきぐさ)』で紀州の名物とされていた。


~「往還の左右および一村ことごとく梅林にして、花候には香気山野に満ちたり」~

梅の栽培の歴史

史料として残されているのは江戸時代からで、文化10年(1813年)、11代将軍徳川家斉の時代に、「漬梅」の記述が出ている。
文政9年(1826年)の『紀州田辺領名産品数書上帳』には、田辺、芳養(ほや)、南部の梅干しが名産品にあげられており、文政10年には田辺町や南部村、埴田村の者が江戸へ梅干しを送っている。

幕末の『紀伊国名所図絵』には「埴田梅林」の絵があり、「往還の左右および一村ことごとく梅林にして、花候には香気山野に満ちたり」と梅栽培のようすについて書き添えてあり、「実は梅干として江戸に送る」としている。

江戸時代から特産物として江戸市場へも送られていた梅は、明治、大正、昭和へと受け継がれ、現在、盛況をみるに至っている。

梅情報

わかやまの食文化

「茶がゆ」の今・昔 ~大正時代の食生活~

和歌山県の食文化の1つとして、「茶がゆ」を食べる習慣が挙げられる。

現在は、3度の食事には白ご飯を食べるのが普通で、茶がゆは時折食べるだけという家庭も多いと思われるが、大正時代の県全体の傾向としては、主食は、麦飯、茶がゆが普通で、大正年間を基本とした県下150か所の調査地点の内、米のご飯を食べていたのは北部と南部で10か所だけだった。(『和歌山県民俗分布図』(1979年)より)

朝食は、茶がゆが最も多く、次いで、いも茶がゆ(さつまいも入り)、麦飯、麦茶がゆ(麦飯の茶がゆ)であり、昼食は、麦飯が多いが、茶がゆ、いも茶がゆ、麦茶がゆを食べることもあった。夕食は、茶がゆが多く、麦飯、いも茶がゆ、麦茶がゆも食べ、夜食には、茶がゆが一番多く、次いでいも類、麦飯、麦茶がゆの順であった。

わかやまのお寿司いろいろ

和歌山県下では、地域よって特色のある寿司が多い。

紀ノ川上流では、柿の葉寿司、紀ノ川中流・下流ではじゃこ寿司、さば寿司、あゆ寿司、加太ではわかめの巻き寿司、小鯛でつくるすずめ寿司、南へ下って有田郡、日高郡ではさばのなれ寿司、紀南ではさえら寿司(さんま寿司)がつくられる。
寿司に使用する葉も、紀北の伊都郡では柿の葉で包み、那賀郡の粉河あたりでは葉らんでしきりをする。紀中ではあせ(暖竹)の葉で包み、紀南ではしだを下に敷くという特色がある。